城郭ブログ

城の歴史、武将を絡めて城関係のネタをまとめています

真田3代の城

武田家最後の当主である勝頼が最後に目指した城はどこ??

 

 1575年 長篠の戦いで敗戦した後、武田の勢いにかげりが見えたことで、次々と寝返りが現れ、武田家は弱体化していきます。

1581年 高天神城の戦いにて家臣/岡部元信に援軍を送らず見殺しにしたことで、武田氏の威信は完全に失墜。翌年の武田家滅亡へと繋がります。

 

これ以上戦うことができなくなった武田家は、織田・徳川軍から逃れるため新府城で軍議を開きます。真田昌幸の居城か、小山田信茂の居城、どちらに逃げるのが得策か?勝頼苦渋の決断の末、選ばれたのは小山田信茂の居城 岩殿城でした。勝頼は新府城に火をつけて、山梨県大月市の岩殿城へ逃亡します。

しかしながら、勝頼は結局小山田にも裏切られてしまい、天目山で自刃に至るわけです。

 

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 小山田信茂役 温水洋一さん(真田丸より)

 

さて前置きは長くなりましたが、勝頼が最後にどちらに逃げるかで話題になる城

 

それが岩櫃城です。


岩櫃城は群馬県吾妻郡東吾妻町にある山城です。武田家の拠点となった岩櫃城。真田信繁の祖父である真田幸隆が得意の内部工作で切り崩し、上田城築城以前の真田氏の本城となったお城。信之・信繁兄弟が幼少時代を過ごした場所と言われています。

 

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ここで岩櫃城の歴史を振り返ってみましょう!

 

???? - 岩櫃城築城(諸説あり、築城年は不詳)

1563年- 真田勢の攻勢により岩櫃城落城

1582年 - 昌幸、岩櫃城南面に勝頼を迎えるための御殿を作る。

1590年 - 小田原征伐後、信之が 沼田城の初代城主に。岩櫃城を除く吾妻郡の城と砦を破脚

1615年 - 徳川家康による『一国一城令』に伴い岩櫃城破脚。

 

続いて岩櫃城の構造についてです。

 

岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城です。頂上より約200m下がった場所(標高593m)に本丸・二の丸・中城があり、この中心に広い範囲を城域としています。また近くに2つの支城、北東側に柳沢城と岩櫃山南側に郷原城を持っています。通称バンジョウ坂を東端とし、西側は本丸のある中心地から距離にして400mほど上がったところを端としています。

この東西を両端とする北東方面へ1.9km延びる尾根線上に主たる設備があります。

南側は切沢の谷を自然の堀として南西の境とし、南東側は岩櫃山の山裾の斜面を壁面として、さらに吾妻川を自然の堀に活用していると考えられます。北側は不動沢が境界となっています。

 (群馬県東吾妻町観光協会 岩櫃城パンフレットより)

 

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中央の盆地が平沢集落

 

岩櫃山、切沢、不動沢、吾妻川を利用し、天然の要害を構築し、弱点となる箇所には支城(郷原、柳沢)を築いて防御を固めています。

 

南側を攻める場合、本丸まで約200m近く登らなければならない上、郷原城があり、攻略は困難です。

そこで平沢集落(上記画像)から侵入し、本丸攻略にあたるわけだが、そうは問屋が卸しません。平沢集落は吾妻街道からは「不動沢」沿いの渓谷を標高差にして120mほどを登る隘路(城の坂)以外に道が無く、敵の侵入がきわめて困難な地形となっています。

この隘路自体が侵入困難である上、支城である柳沢城、岩櫃城の出丸に相当する「天狗丸」に挟まれているため、平沢集落にたどり着くことは更に困難となります。

以上から岩櫃城は、この平沢集落をも城域に取り込んで、高原盆地状の平沢集落を防衛するための城郭とも見て取れます。ある意味で、集落の周囲に多数の城砦を並べて盆地全体を防衛しようとしたと考えられるわけです。

これは信州の真田郷とも似ています。

 

更に万が一、本丸まで攻め込まれた場合にも、背後の薬師岳方面に逃走可能となっています。

 まさに真田の生き残り術の真骨頂が詰まっている城域となるわけですね。

 

ご興味のある方は足を運んでみてはいかがでしょうか?

 

岩櫃山の登山を楽しんだ後には、岩櫃城の天守をモチーフにした岩櫃城温泉へ。

実際の岩櫃城とは何の関係もないそうです(笑)

岩櫃ふれあいの郷