城郭ブログ

城の歴史、武将を絡めて城関係のネタをまとめています

秀吉天下統一のきっかけとなった山城

秀吉が信長の意思を継いで天下統一したのは、皆様の知るところです。

 ではその総仕上げとなる『小田原征伐』が起こるきっかけはご存知でしょうか??

 

その舞台となる城が群馬県みなかみ町にあります。

 

 

その城の名は名胡桃城です。

 

名胡桃城が築城されたのは、伝承によると室町時代1492年と言われています。

歴史の表舞台に登場するのは、1579年(天正7年)のことです。築城から80年以上経過しています。

 

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[名胡桃城現状図]

馬出しから三郭・二郭・本郭・ささ郭と主要な郭が直に並ぶ連郭式の山城

 

上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として築いた城です。

昌幸は小川可遊斉と共に名胡桃館を攻略して隣接地に築城、ここを足がかりとして昌幸は沼田城攻略を企図し、調略の結果、沼田城を手に入れることに成功しました。

この経緯は過去の記事で取り上げましたので、宜しければ合わせてお読みください。

 

rekishi-mania.hatenablog.com

 

1582年-武田氏の滅亡後、天正壬午の乱を経て独立した真田氏と後北条氏が沼田・吾妻領をめぐって約10年にわたり争いを繰り返します。

真田、北条が揉めた理由は徳川であり、その遺恨により第1次上田合戦まで至ります。

 

このいざこざを解消するため、天正17年(1589年)豊臣秀吉の調停を行います。

 

沼田領は北条に引き渡されることとなったが、真田氏は「名胡桃城は祖先の墳墓の地である」と主張して、名胡桃城の譲渡を拒否、秀吉は津田盛月と富田一白を派遣し検分した結果、沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏領となったが、利根川を境として、名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵されます。

Wikipedia)

 

名胡桃城には鈴木重則が城代として入ります。同年11月、沼田城代となっていた北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(通称:名胡桃城事件)が発生します。

 

【名胡桃城事件】

猪俣家臣:竹内孫八左衛門が鈴木重則の妻の弟である中山九兵衛尉(元中山城(高山村)城主)を調略します。

成功の報酬は、名胡桃城一帯の統治権です。

それに乗せられた中山九兵衛尉は、真田昌幸からと偽った緊急の書状を重則に渡します。それを見た重則はわずか手勢をもって急ぎ城を出ます。途中、岩櫃城に立ち寄り重臣矢沢頼綱(昌幸の叔父)と会って、謀られたと知った重則は急ぎ立ち返りますが、すでに名胡桃城は乗っ取られた後でした。重則はその失態の責任を取り正覚寺で自害したと言われています。

 

この事件により、秀吉は私的な戦を禁じた『惣無事令』に違反したとして翌年(1590年)2月に小田原征伐に乗り出すわけです。

北条氏の滅亡後、役割を終え廃城となりました。

戦の拠点として活躍したのは、約10年間でしたが、非常に歴史的意義を持つ城だと思います。

 

名胡桃城址 群馬県指定史跡(みなかみ町) | 群馬県の観光スポット・旅行・温泉・地域情報[WEB群馬]