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城郭ブログ

城の歴史、武将を絡めて城関係のネタをまとめています

上州の名城(後編)

上州 真田信之

上州の名城(後編)です。

 

前編を未読の方は是非とも以下をお読みください。

上州の名城(前編) - 歴史ブログ - Focus on Civil war era in Japan -

 

真田信幸が沼田城主となってからのお話です。

 

1597年 - 信幸が城郭整備を行います。

城内に5層の天守閣を建設し、二の丸、三の丸の整備を行っています。

のちの改易により城は破却され、堀も埋められてしまいます。

現在でも残されているのは櫓、石垣のみです。

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1600年 - かの有名な関ヶ原の戦いにて、東軍についた信幸(以降信之に改名)が上田領も継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩する(信之は引き続き沼田城を本拠とする)

 

真田氏が生き残るきっかけとなった犬伏の別れ後、沼田城はある舞台の場となります。

 小松姫(信幸正室)の逸話です。

この辺りの話は真田丸でどのように取り上げられるのか非常に楽しみです。

 

関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。後に、自ら子供をつれて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心したと言う。
一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したとも言われる。

(wikipediaより)

 

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その後、真田家による沼田城の統治が約90年にわたり続くが、信之の孫である信利の暴利によって1681年に改易を受け、翌年沼田城は破却されてしまいます。

信利の暴利の原因となったのは、真田本家と信利のお家騒動であります。

 

信利は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した(沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また沼田城を修築して5層の大天守閣を立て、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。


延宝8(1680年)年、信利は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負った[2]。しかし、折からの台風により利根川、片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681年)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。 

(wikipediaより)

 

およそ230年後

1916年 - 旧沼田藩主である久米民之助(久米民之助 - Wikipedia)によって城地を購入し、公園に整備。1926年に沼田市へ寄贈され、今に至ります。

 

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 久米民之助像

 

ご覧頂きありがとうございましたm(_ _)m

 

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